イエスの血潮の働きについて  デリック・プリンス師 - Derek Prince, How To Apply The Blood

               ユーチューブより転載: https://www.youtube.com/watch?v=abagWpmC9tY&app=desktop
                                          by. 17 3/29 Freedom in Christ

                                                    21年1月12日



  私が十字架のことを話とき、十字架のネックレスや壁飾りのことを言っているのではありません。 別にそれがいけないと言っているのではありませんが、私の言う「十字架」とはそれらのことではありません。 イエス・キリストの死によって成されたこと、罪のために十字架で犠牲となられたことです。 それらのことを言い表すのに「十字架」という言葉を使います。
  初めてではありませんでしたが、昨晩、クライストチャーチの集会に出席しました。昨日、出席していた人は、何人くらいいますか? すばらしい。割といますね。 非常に素晴らしい時を過ごしたので、欠席した人は残念でしたね。 そうでしょう? 説教師のおかげではなく、主が訪れたからです。 昨晩は至福の時(=cloud 9)を過ごしました。 「第7の天国」という言い回しは聖書的ではないので、幸せ感を言い表す時は「Cloud 9」と言ったほうが良い。 天国にはたくさん雲があると思いますので。

  私たち一人一人を贖うために、神の愛が現れたことを話しました。 その代償は、素晴らしきイエスの血潮で、旧約聖書にはイエスが血を流されることが予示されています。 レビ記16章に書かれている儀式を通して、イエスの血潮を振りかける行為が、7回行われることを神は示してくださいました。 昨晩それらを福音の中から見つけ出しました。それらの要点を見てみたいと思います。 私のラジオ番組を聞いている人は、私が要点を繰り返すことをすでにご存じでしょう。 一回言っただけでは、皆が理解するとは思いません。ほとんどが理解していないでしょう。
  東アフリカに5年いたとき、学校の先生たちに教えていました。私が先生たちにいつも言っていたのは、良い講義には、要点の繰り返しが必ずあるということです。 だから簡単に、イエスの血潮が7回振りかけられたことを説明します。

  福音に書いてありますが、ゲッセマネの園で苦しみもだえてイエスが切に祈ると、汗が血のしずくのように地に落ちました。(ルカ22:44) それから大祭司の家に連れて来られ、彼らはイエスの顔を殴り、血が出ました。 そして彼のひげも抜かれ、血が出ました。(イザヤ50:6) そしてピラトに引き渡され、彼はイエスを鞭打ちにします。 当時のローマ帝国による鞭打ちに使われる鞭は、先が何本にも分かれており、それらに骨や金属が埋め込まれていました。 それで背中を打たれると、文字通り肉が裂けたのです。 そしてイエスが王だとからかって、いばらの冠をかぶせましたね。 イスラエルの生えているいばらは、刺が非常に長く非常に硬くて鋭いので、人々はそれをイエスの頭にかぶせて、主の頭を殴ったのです。 刺が頭皮に刺さったでしょう。 だから血が出て顔を流れ落ちて、髭のあたりで血が固まった。 イザヤはそれを預言して、52章14節には、 「その顔だちはそこなわれて、人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。」 とあります。現代語の翻訳では、人間には見えなかったとあります。 そして彼らは主を十字架にかけ、手足に釘を刺します。 主が死なれた後、心臓近くの脇腹を兵士が槍で突き、水と血が流れ出ました。
  だから贖いの日の儀式で、7回血を振りかけるのは預言的ですね。 そしてレビ記17章11節で、神は、「肉のいのちは血の中にある。」とも言っておられます。 「わたしがあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。 いのちとして贖いをするのは、血である。」 これは旧約に出てくるものすごい預言です。 これは、イスラエルの民が、血の入った物を食べるか否かだけの問題ではなく、十字架を預言しているのです。 「すべての肉のいのちは血の中にあり、カルバリの祭壇でそれをあなたたちに与える。」と言っているのです。 あなたのたましいを贖うためです。 そしてイザヤ53章12節に、預言的な贖いの様子が描かれており、「自分のいのちを死に明け渡した。」と書いてあります。それは主の血によって成されたのです。 イエスは人類の罪の贖いのために、たましいを明け渡したのです。 イエスのたましいが、あなたや私のたましいの代わりとなり、最終的な、罪のいけにえとなられたのです。


  今日は、とても実用的なことを教えます。 今説明したことは、本当で、すばらしいことですが、自分の生活や経験の中でそれをどのように適用するか、分らないことがあります。だからイエスの血潮をどのように適用するか、どのようにイエスの血潮の力があなたの暮らしの中で完全に働くかを、教えます。
  その取っ掛かりとして、黙示録12章11節を見てみます。 黙示録12章11節。 これから起こる、終末の壮絶な戦いのことが書かれている箇所だと思います。 現代が終末に近づくと、天と地で戦いが起こり、神の天使や、サタンの堕天使も登場し、神を信じる人々も関わってきます。 そして神と神の民が勝利を収めるのです。 この聖句には、地上にいる神を信じる人々が、勝利のためにどのような役割を果たすかが、書かれています。 これは天使が、地上にいる信者について語ったことです。
  黙示録12:11で、「兄弟たちは」 これは私たちのように、イエス・キリストを信じる者です。 「小羊の血と、自分たちのあかしの言葉のゆえに、彼、すなわちサタンに打ち勝った。」 私たちとサタンが、真っ向から対決するのです。その間には誰もいませんが、兄弟たちはサタンに打ち勝ったのです。 どのように打ち勝ったのか。「小羊の血と、自分たちのあかしの言葉のゆえに打ち勝ったのです。 そして、「彼らは死に至るまでも、いのちを惜しまなかった」のです。 完全に捧げた人たち、そのようなクリスチャンだけが、サタンを脅かすことができるのです。完全に捧げたクリスチャンです。
  「彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった」とは、どういうことですか? 彼らにとって生き延びるということは一番重要ではなく、一番重要なのは、生きても死んでも、神のみこころを行なうことです。 彼らにとって生き延びることは最も重要なことではなく、主に対して忠実で、神のみこころを行なうことが重要なのです。 主の軍隊の兵士となることについて話す時、ほとんどの人が漠然とした考えしか抱いていません。 私は第2次世界大戦のとき、5年半、英国軍にいました。志願して入隊したわけではありませんが、そういう状況になった時、司令官から、「あなたの命を保証します。」という証書をもらったわけではありません。兵隊は、「自分は絶対に殺されない」と思って入隊するわけではありません。むしろ入隊するときは、「自分は殺されるかもしれない。」と思って入るのです。自分の命が犠牲になるかもしれない。 主の軍隊も同じです。いのちを失わなくてもよいという保証はないのです。 でも、いのちを惜しまない人のことを、サタンは恐れています。 短い人生ですし、永遠に続くわけでも、いつもバラ色でもありません。 でも永遠の栄光を逃すのは愚かです。地上での数年のためにそれを逃すのですか。(主にいのちを捧げることは、)自分たちのためにも賢明だと思います。何がもっと大事か、その価値を見極めるのです。 私にとって一番大事なのは、神のみこころを行なうことです。
  第1ヨハネ2章17節に、すばらしい聖句があります。 「世と、世の欲とは滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」とあります。 あなたの意志を神のみこころと一致させて、すべてを捧げると、あなたは無敵となり、揺るがされない負け知らずになり、神のみこころと同じくらい、確信を持って生きるようになります。 みこころと一致すると、生きるか死ぬかはどうでも良くなり、打ち負かされなくなるのです。

  それでは、小羊の血と自分たちのあかしの言葉で、サタンに打ち勝つとは、どういうことでしょう。 これは神が私に教えてくださったことで、宝石のように貴重な真理です。何百万ドルを積んでも、これに値段をつけることはできません。それでも払えないもので、この真理には値段がつけられません。簡単に説明するので、注意して聞いてください。
  私たちがサタンに打ち勝つには、みことばでいうところの、私たちのためのイエスの血潮の働きを、個人的にあかしをするのです。 もう一度言います。 私たちがサタンに打ち勝つには、みことばでいうところの、私たちのためのイエスの血潮の働きを、個人的にあかしをするのです。 ((直訳) 私たちはサタンに打ち勝ちます。私たちが個人的にあかしをするときに。 みことばが言うように、イエスの血潮が成し遂げた。私たちのために。) ただ覚えるだけでなく、私について言って、覚えてください。一文ずつ言うので、後について言ってください。 ・・・


  それではそのやり方を教えます。 まず、旧約聖書からの例を。 出エジプト記12章から見ます。過越しの儀式です。 過越しのいけにえの羊は、イスラエルの民全体を守りました。でも確実に守られるためには、羊とその血を所定の方法で取り扱う必要があります。
  出エジプト記12章を見る前に、第1コリント5章からある一文を読みます。 「私たちの過越しの小羊キリストが、すでにほふられたからです。」(第1コリント5:7) 言い換えると、旧約のエジプトでの過越しは、預言的なものだったとパウロは言っているのです。 いけにえとしてイエスが十字架でなされたことを、予示することだったのです。 キリストが本当の過越しなのです。過越しのいけにえの小羊の血ではなく、キリストの血が、私たちの永遠の贖いを最終的に保証してくれるのです。 イスラエルの民は、血をどう扱うかの指示を受けましたが、それはすばらしい型なのです。 それでは、出エジプト記12章を見てみましょう。

  出エジプト記12章21〜23節を読みます。 ところで言っておきますが、父親に重大な責任があるということを、過越しの儀式は示しています。イスラエルの民の安全や救いを保証できるのは、父親たちだけだったのです。イスラエルの民の父親たちが義務を怠ったなら、過越しによって人々は守られませんでした。 今日の一番の大きな社会問題の一つは、父親が責任を果たしていないことにあると思います。子供に問題があるというので、その両親をカウンセリングしたことが何度もありますが、非行少年・少女などいません。両親の非行が問題なのです。中絶や、ドラッグや、家庭崩壊など、多くの社会問題は、問題の原因をたどると、父親の非行があると思います。 この話の中でも、父親が義務を怠ると、イスラエルは贖われなかったのです。 神には、2番目の対策案などなく、1番目の計画が神のご計画で、父親がその責任を負っていたのです。

  出エジプト記12章21節を見ます。 「そこで、モーセはイスラエルの長老たちをみな呼び寄せて言った。『あなたがたの家族のために羊をためらうことなく取り、過越しのいけにえとしてほふりなさい。 ヒソプの一束を取って鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。 朝まで誰も家の戸口から外に出てはならない。 主がエジプトを打つために行き巡られ、かもいと二本の門柱にある血をご覧になれば、主はその戸口を過ぎ越され、滅ぼす者があなたがたの家に入って打つことがないようにされる。』」
  主が、「小羊の血で守られている戸口を過ぎ越す」と言われたので、「過越し」と言うのです。 何をするのかというと、各家の父親が、家族のために適切な大きさの小羊を選び、小羊をいけにえにして鉢で貴重な血を受け取り、地面に血をこぼしてはいけませんでした。小羊がほふられ、血を鉢で受け取っても、鉢に入ったままでは誰も守られません。 血を家の戸口に塗って、初めて家が守られたのです。 かもいと二本の門柱に塗るか振りかけるかしますが、敷居には決してかけません。血の上をまたぐことはできません。 イスラエルの運命は、鉢の血を戸口に塗ることにかかっていたのです。 どのように塗ったかというと、ヒソプの束を使いました。ヒソプは雑草のように中東のあらゆるところに生えていますが、ヒソプの束をつかんでそれを鉢の血の浸し、その血を戸口に振りかけるのです。ヒソプは別に大した植物ではありませんが、イスラエルの救いには欠かせないものだったのです。 そしてもう一つ重要なことは、戸口に血を振りかけたら、家の中にいなければなりませんでした。外には行けませんでした。外に出ると守りがないからです。
  出エジプト記12章を開いたまま、第1ペテロを見てみましょう。第1ペテロ1章1、2節です。 これはペテロのあいさつ文です。 「イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、カパドキヤ、アジヤとビテニヤに散って寄留している」。 そして彼はこう描写します。「選ばれた人々、すなわち、父なる神の予知に従い、御霊のきよめによってイエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。」 「血の注ぎかけ」の前に、「従うこと」が出てくることが分かりますか? 従わない人には、血は注ぎかけられません。 従わないで家の外に出た人には、血は働かなかったのです。血による守りは完璧ですが、守られるのは従う人だけなのです。

  それでは過越しの儀式に戻ります。 鉢の中に血があって、それを家に塗るためにヒソプを引き抜いて血に浸し、戸口に振りかけると、彼らは安全なのでした。 パウロは、キリストが我々のための過越しのいけにえだと言います。 キリストは19世紀前にほふられ、ある意味その血はまだ鉢の中に入っているのです。鉢の中の血は、誰をも守ることができません。私たちもイスラエルの民と同じように、血を自分たちの住まいに振りかけなければならないのです。そして私たちが従順なら守られるのです。
  それではイエスの血を、私たちの住まいにどのように持ってくるのでしょう?
  黙示録11章12節に戻ります。 「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしの言葉のゆえに、彼に打ち勝った。」 覚えていますか? ”私たちがサタンに打ち勝つには、みことばで言うところの、私たちのためのイエスの血潮の働きを、個人的にあかしをするのです。”((直訳) 私たちはサタンに打ち勝ちます。私たちが個人的にあかしをするときに。みことばが言うように、イエスの血潮が成し遂げた。私たちのために。)
  鉢から自分たちの住まいに血を持って来るものは何でしょう? あかしなのです。
  あかしはとても簡単です。 聖書に書いてあることを、2、3語言うだけです。 ヒソプのようですが、私たちを救ってくれます。 私たちを守ってくれるのです。あかしの重要性を強調しすぎることはありません。

  似たような聖句があります。 ヘブル3章1節です。 「そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」 ヘブル書の著者は、イエスを私たちの大祭司と呼びました。 告白とは何か分かりますか? 告白とは(ギリシャ語で)、「同じことを言う」という意味です。 イエス・キリストと聖書を信じる人にとって、「告白」とは、神が言っていることと同じことを、自分の口でも言うことです。 私たちの口から出る言葉を、みことばと一致させるのです。 そしてイエスが私たちの告白の大祭司なのです。 告白なしには、大祭司もいません。 あなたが正しいことを告白するなら、主があなたのために働くことができるのです。 あかしも告白も、救いを受け取るためには絶対不可欠です。 イエスは、「あなたが正しいとされるのは、あなたの言葉による。 罪に定められるのも、あなたの言葉によるのです。」と言われました。(マタイ12:37) あなたが話す言葉で、自分の運命を決めるのです。 ヤコブは、「舌は船の舵(かじ)のようだ。」と言いました。(ヤコブ3:4) 小さなものではあるけど、船の進行方向を決めるように、舌が私たちの人生を決めるのです。
  正しいことを言って、みことばと一致したことを言うか、間違ったことを言って自分の人生を逸脱させるか、船が安全に港に着くか、転覆するかは、あなたの舌の使い方で決まるのです。 多くのクリスチャンは舌を慎重に使いません。 人は、「あなたに会いたくて死にそう」などと言いますが、決してそういうことは言わないでください。アメリカ人は、「死ぬほど笑った」とも言いますが、そんなことは言わないでください。あなたが笑う理由は分かりますが、笑い事ではないのです。 イエスにそうしてもらいたくなかったら、自分に関してそのような発言をしないことです。 自分のことを過小評価しないでください。 神はあなたのことを大切に思っておられ、だからイエスの血が流されたのです。 謙遜という名で、自分のことを卑下すると、神の作品をけなしていることになります。 「私たちは神の作品である。」と聖書にあります。(エペソ2:10) 神の作品をけなすのですか? クリスチャンにとって高慢は大きな問題ですが、自分を過小評価することも同じく大きな問題です。 私たちのことではなく、神が私たちを如何につくり変えられたかということです。



  それでは、イエスの血潮を、鉢からあなたの人生にどう適用するかを説明します。 みことばを知らないと、みことばでいう私たちのためのイエスの血潮の働きを、個人的にあかしする事はできません。だから不可欠なのは、イエスの血潮について聖書に書いてあることを知ることです。 先ほど言ったように、新約ではイエスの血潮が7回流されましたね。だから私たちの人生の中で、その血潮を7回適用する方法を教えます。 新約が教える、イエスの血潮の7つの働きを言います。

  第1に、贖いがあります。 エペソ1章7節を見ます。 「この方にあって私たちは、その血による贖い」があり、贖いとは、「買い戻される」ということです。私たちが悪魔の手中にあったのをイエスが買い戻し、その支払いが血潮だったのです。 第1ペテロ1章18、19節、 「ご承知のように、あなたがたが父祖伝来の虚しい生き方から贖いだされたのは、銀や金のような朽ちるものにはよらず、傷も汚れもない小羊のようなキリストの尊い血によったのです。」 小羊が出てきて過越しの小羊に話が戻り、イエスは傷もなく罪のない生誕で、汚れも個人的な罪もなく、その血で私たちは贖われたのです。
  そのことについて、詩篇107章を見てみます。2節です。 「主に贖われた者はこのように言え。主は彼らを敵の手から贖い・・・」 敵とは誰ですか?サタンです。 私たちが贖われたらどうするのですか?そう言うのです。口で言わなければ、贖いはありません。告白やあかしがあなたの贖いを有効にするのです。そうでなければ血は鉢に入ったままです。 それなら何と言うのでしょうか。
  例を挙げます。これだけというわけではありませんが。 「イエスの血潮を通して起こる自分の個人的なあかしは、悪魔の手から自分が贖われた。」です。
  自分がイエスに出会ったとき、自分は酷い所におり、間違いなく悪魔の手中にいました。でも今日は違います。なぜなら私は悪魔の手からイエスの血潮によって贖われたからです。 一緒に言って祝福されましょう。 とても実用的です。他にもいろいろあります。 積極的に協力するだけで、あなたも祝福を受け取ることができるのです。 「イエスの血潮によって、悪魔の手中(しゅちゅう)から私は贖われました。」 よくできました。 今度は一緒に言いましょう。「イエスの血潮によって、悪魔の手中から私は贖われました。」 すばらしい。それでは私に向かってではなく、誰た他の人にそう言ってください。周りに座っている人に向かって言ってください。恥ずかしがったり、宗教的にならずに、彼らの目を見て言ってください。「イエスの血潮によって、悪魔の手中から私は贖われました。」・・・誰かに言ってくださいね。 これによって、これまでになく自由を得る人がいますよ。何かが起こったからです。

  それではイエスの血潮の 2つ目の働きについて言います。 それは、きよめることです。 第1ヨハネ1章7節を見てください。 「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血は、すべての罪から私たちをきよめます。」 原語では、この部分のすべての動詞は、現在進行形で書かれており、これは重要なことです。 私たちは光の中を歩み続け、私たちは互いに交わりを持ち続けるのです。あなたが光の中にいるという証拠は、互いに交わりを持つことです。交わりから外れると、光の外にいることになります。そして、光の外にいるなら、暗やみにいるものを、血潮はきよめません。私たちが光の中を歩み続け、互いに交わりを持ち続けるなら、御子であるイエスの 血潮は、すべての罪から私たちをきよめ続けるのです。継続してそれが起こるのです。 自分たちが光の中にいれば、どんな汚れた状況下にいても、悪しき人たちに囲まれていても、無数の悪しき力が私たちを圧迫していても、私たちが光の中を歩むなら、血潮は私たちをすべての罪からきよめてくれるのです。第1ヨハネを開けたまま、他のところもお見せします。 詩篇51篇を見てください。 これはダビデの大いなる悔い改めの詩です。姦淫と殺人の罪という 2つの大きな罪を犯した後、彼は神のもとで泣き叫び大いに悔い改め、あわれみを乞うた。7節で彼が言ったことを見てみましょう。 「ヒソプをもって、私の罪を除いてきよめてください。そうすれば私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば私は雪よりも白くなりましょう。」 彼はヒソプと言ってますよね。 ヒソプは過越しを意味し、彼は血のことを言っているのです。「ヒソプをもって、私の罪を除いてきよめてください。そうすれば私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば私は雪よりも白くなりましょう。」 自分に罪がある時、行く場所があることは、特権です。 何億という人が、罪を抱えながらも、どこに行けばよいのかを知らないのです。自分の罪からくる罪悪感にさいなまれる苦しみが、想像できますか?彼らは赦しと平安を受け取るために、どこへ行けばよいのか知らない。 それが今日の人類が置かれている状況です。
  第1ヨハネ1章7節に戻って、ある型を教えます。事前に考えていたわけではないので即興ですが。 「私が光の中を歩むとき、イエスの血潮が、今私をきよめ、すべての罪から私をきよめ続けます。」 「今」と入れたのは、今、この場所でも使えるものにしたいからです。そして今だけではなく、今後も、光の中にいる間、ずっとです。私の後について言ってください。 「私が光の中を歩むとき、イエスの血潮が、今私をきよめ、すべての罪から私をきよめ続けます。」 それでは一緒に言いましょう。 「私が光の中を歩むとき、イエスの血潮が、今私をきよめ、すべての罪から私をきよめ続けます。」

  血潮の次の働きは、義とすることです。 これに腹を立てる人もいますが、そこまで難しいことではありません。 ギリシャ語では基本的に「義とする」という意味ですが、いろいろなレベルの意味合いがあります。 ローマ人への手紙5章9節を見てみます。 「ですから今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の御怒りから救われるのはなおさらです。」 私たちは主の血によって義とされたのです。 言い換えると、あなたが裁判沙汰に巻き込まれ、死刑になるかもしれないとき、判決が下され無罪になったとします。 義と認められたのです。無罪放免になったのです。 それ以上の意味があり、あなたは義と認められたのです。 あなたのではなく、キリストの義によって、義とされた。でもあなたは義とされたのです。 それはすべての意味を含んでいます。無罪となり放免され、義と認められ、義となることです。 そして理解しないといけないのが、「義と認められる」ということは、「罪を全く犯したことがないかのように、義と認められる」ということです。 罪を犯したことのないキリストの義によって、自分も義となるからです。 主には、罪悪感も、隠さないといけない過去も、ありません。あなた自身の義では天国に行くことはできません。 イザヤは、「私たちの義はみな不潔な着物のようだ。」と言っています。(イザヤ64:6) でも不潔な着物ではなく、イエスの血潮で、イエスの義を受け取るのです。すると悪魔は、私たちを訴えることはできません。 ローマ書を閉じないまま、違う聖句を見せます。指がそんなに何本もないと、よく言われます。
  イザヤ61章10節です。 「私は主によって大いに楽しみ、私のたましいも、私の神によって喜ぶ。主が私に救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせた。」 救いと正義という2つのものを受け取るのです。 イエス・キリストを信じて、あなたのためにいけにえになられたと信じるなら、主があなたに救いの衣を着せるだけでなく、正義の外套であなたを覆ってくださるのです。「包み込んでくれる」という翻訳もあります。あなたは完全にイエス・キリストの義に覆われているので、悪魔はあなたを訴えることはできません。あなたが過去に犯した過ちを、悪魔が言ってくるものなら、「そうですね」と言っておけばよいのです。「サタンよ。それは正しいが、すべて過去のことだ。」と言えばよいのです。「でも自分はイエス・キリストの正義を外套にまとっているので、訴えるものは何もないだろう。」と言えるのです。
  ローマ人への手紙5章9節に戻り、もう一度見直して、それから考えましょう。よく聞いてください。 「イエスに血潮によって・・・」 まだあなたたちが言わなくてもいいです。自分でもまだどうなるか分からないからです。 「イエスの血潮によって、まるで自分はこれまでに、罪を犯したことがないかのように、義と認められ、放免され、無罪となり、義とみなされ、義とされたのです。」 私の後について言ってください。 「イエスの血潮によって、まるで自分はこれまでに、罪を犯したことがないかのように、義と認められ、放免され、無罪となり、義とみなされ、義とされたのです。」 深呼吸してから、「神よ、感謝します。」と言ってください。

  続けます。次は、聖なるものとすることです。 ヘブル13章12節を開けてください。 「ですからイエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。」 原語でもきよめることは、聖となることに関係しています。 sanct(ラテン語で、聖なる)というのは、英語のsaint(聖徒)と同じ語です。だから「きよめる・聖となる」というのは、聖徒のようになる、ということや、聖なる、という意味です。2つの働きがあり、私たちは罪や汚れたものから聖別され、神の聖によって、聖なる者とされるのです。 ヘブル12章も読んでみます。 神の懲らしめについてです。ヘブル12章10節に、私たちの肉の父親は、短い期間自分が良いと思うままに私たちを懲らしめる、とあります。 でも神のやり方は違います。ヘブル12:10。「なぜなら、肉の父親は、短い期間自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。」 私たち自身の聖さでも、義でもなく、主の聖さなのが分かりますね。 それをどうやって受け取るかというと、イエスの血潮によってです。 イエスはご自分の血潮で人々を聖とするために、苦しまれたのです。
  その血潮の力をどのように活用するかです。 「イエスの血潮によって自分は聖とされ、罪から離され、神のために聖別され、神の聖さによって聖となったのです。」 覚えているか分かりませんが、もう一度言うので後について言ってください。 「イエスの血潮によって、私は聖とされ、聖となり、神のために聖別され、罪から離され、神の聖さによって聖となったのです。」 言葉を変えても構いません。この事実を理解することが重要です。
  これまでやってきたことは、ヒソプを鉢に漬けて、血潮を自分たちに振りかけていたのです。 続けます。 贖い、きよめ、義となる、聖となることについて話しました。

  いのちについて話します。 ある説教師が、イエスの血潮は悪いものを消すためだけだ、と言うのを聞いたことがあります。私たちを悪しき者から救い出すだけ、と言っていました。危険な教えです。 「いのち」という素晴らしいものを与える働きもあるからです。 レビ記17章11節を見てみましょう。先ほども一度読みました。 「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは、血である。」 神のいのちが、イエスの血潮の中にあるのです。 神という創造主の、いのちです。 人間の頭では、とてもその可能性を理解することができません。創造主は被造物よりも、果てしないほど偉大で、指を鳴らすだけで全宇宙ができるのです。 イエスの血潮の中に何があるかを理解すると、すごいことだと思います。 一滴のイエスの血潮には、サタンの王国を合わせたものより、力があると思います。 永遠で、被造物ではなく、測ることのできない、神のいのちそのものだからです。他のものが創造されるはるか以前か存在しているいのちが、イエスの血潮の中にあるのです。
  それを考えながら、ヨハネ6章53〜57節まで読みます。 「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。』」 イエスは2回強調しました。古い聖書では、「まことに」が1回だけのものと、2回のものがあります。「まことに」とは「重要です」という意味で、「まことに、まことに」は非常に重要だということです。この翻訳では、「確実に」とか「非常に確実に」と訳されています。 だからこの部分は、非常に重要な教えです。「まことに」に戻ります。 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を持っています。 私は終わりの日に、その人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、私も彼のうちにとどまります。 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も私によって生きるのです。」 多くの方法で適用できますが、私はキリスト教徒としての働きを1946年に始め、エルサレムの北にあるラマッラという名のアラブの町にいました。・・・今は大きな町になりましたが。私の最初の妻と子供たちが家で話す言語はアラビア語でした。自分の身にしみついて、決して忘れないことがありますが、ユーカリストでも聖餐式でも、呼び名が何であれ、聖餐式を考えるとき、アラブ人たちが言ったことを思い出します。 「イエスの血潮を飲む」と言う意味です。 別に特別な霊的な意味があるわけではありませんが、彼らはそう呼んだのです。たくさんの血潮の適用法はあると思いますが、聖餐式がある時、私は主の肉を食べ、主の血を飲みます。 ある人にとってはそれはつまずきの石になりますが、自分はそうします。 聖餐式は、主のことを思う出すだけのものだと教えられた人もいますが、イエスはそうは言いませんでした。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲みなさい、と言ったのです。思い出す役目ももちろんあります。でもそれだけでなく、私たちは主イエス・キリストの体と血を受け取っているのです。それを変える必要はないと思います。それがどう肉と血になるか、ということについていろいろな意見があります。 カトリックは司祭によってきよめられたものとしますが、自分はそうは信じません。信仰でそれが起こるのだと私は信じています。 イエスご自身が言われた言葉を信じて、信仰でそれを受け取れば、イエスが言われた通りのことが起こるのだと思います。 自分はその意見に満足しているので、私と議論しないでください。
  第1コリント10章を見てみましょう。 ここにはバプテスト派と、ブラザレン派が混じっていると思いますが、それはまさに神の行ないですね。ブラザレン派の説教者が信者に、イエスは”as often as...(頻繁に行ないなさい)”と言いましたが、あなたたちは滅多にしませんね、と言いました。 第1コリント10章16節を見てみましょう。 「私たちが祝福する杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。」 そして、主の晩餐がいかに始まったかを著者は11章で説明して、11章23節で、「私は主から受けたことをあなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り感謝をささげて後それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。』」 これを覚えることは正しいことですか、覚えるとき何をしますか?主の体を受け取ります。 「夕食の後、盃をも同じようにして言われました。『この杯はわたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに私を覚えて、これを行ないなさい。』 ですからあなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。」 私やルースの真似をしなくてもよいのです。 キリストの体には自由がありますので、神の導きに従えばよいのです。
  でも聖餐式は、私にとって非常に重要です。私は神のいのちを必要としているからです。自分は(聖餐式の)広告塔のようですが、私が71歳だということをほとんどの人は知らないでしょう。その理由の一つには、イエスの体と血にあずかっているからだと思います。これは神学論でも教理でもありません。生きる現実なのです。私たちがやることを真似しろと言っているのではありませんが、私たち夫婦は、聖餐式を毎朝行ないます。毎朝私は同じことを言います。 「主イエスよ。・・・」 なんて言うんだっけ・・・。パンを裂いてから、「主イエスよ。このパンをあなたの肉としていただきます。」 それから小さなコップを持って、「この杯をあなたの血としていただきます。」と言います。そして、「これらを行ないながら、主が来られるまで、主の死を告げ知らせます。」と言います。 キリスト教徒が人口の1%以下であるエルサレムで、これを行ないます。 毎日、主の死を告げ知らせることができるとは、なんという特権でしょう。 ある聖書の研究者が、前世紀にこれについて言ったことがあります。「主が来られるまで、主の死を告げ知らせる」という、この伝統や命令について、私たちは時間の枠の外でこれを行なうのです。 私たちの過去には、十字架しかなく、未来には、主が来られることしかありません。だから主が来られるまで主の死を告げ知らせ、私たちがそれを行なうたびに主が来られることを思い出すのです。これをどのように告白するか。信仰によって行ないましょう。 今、聖餐式ではないので、信仰によって告白しましょう。何と言えばよいのか考えます。 「主イエスよ。あなたの血潮を受け取るとき、あなたのいのちも受け取ります。神聖なる、永遠で終わることのない、神のいのちを、受け取ります。」 覚えているか分かりませんが、私の後について言ってください。 「主イエスよ。あなたの血潮を受け取るとき、あなたのいのちも受け取ります。神聖なる、永遠で終わることのない、神のいのちを、受け取ります。」 主よ感謝します。 神を礼拝しましょう。今それを受け取って、神のいのちに満たされましょう。心や、思考や、体でも受け取ってください。 パウロは、「死ぬべきものが、いのちにのまれてしまう」と言いました。(第2コリント5:4) 私たちの体にある病や、朽ちていくものが、日々の神のいのちにのまれていくのです。またパウロは、「私たちの外なる人は衰えても、内なる人は、日々新たにされています。」と言いました。(第2コリント4:16) 内なる人にいのちが溢れているので、それによって私たちの使命を果たすまで、外なる人が支えられるのです。アーメン。  残り2つの血潮の効果について、お話しします。

  6番目の効果は、「とりなし」です。 ヘブル書12章22〜24節を読みます。 ヘブル12章22節は、”We have come...”と始まり、それに完了形が使われているのに気付きましたか。肉体ではなく、霊的には、既に完了したことなのです。ここには完了したことが挙げられており、「あなたがたは、1)シオンの山に近づき、・・・、2)生ける神の都、天にあるエルサレムに近づき・・・地ではなく天にあるものです。3)無数の御使いたちの大祝会に近づいたのです。」 他の翻訳のものを好みますが、その説明をする時間はありません。NIV(×)には、「無数の御使いたちの大祝会に近づいた」とあると思います。私たちのために御使いたちが着飾っているのです。無数の御使いたちを見ることは素晴らしいことですが、彼らの祝賀ですよ。 ルースと私が3年前に(北アイルランドの)ベルファストに行ったとき、ある家庭集会があり、私たちが神の御前と互いの前でへりくだると、神の臨在が現れ、働き始めたのです。10分ほど、ルースは無数の御使いたちを見たそうです。彼らが行き交っており、そのうちの一人が部屋に入ってきたので、彼女は目を閉じたそうです。今日これらを皆、体験することができるのです。新約聖書の人たちと、私たちは何も変わらないのです。 「あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に(近づいたのです。)」 「4)また、天に登録されている長子たちの教会・・・新生した人は名が天に書かれているのです。5)万民の審判者である神・・・神のほかにも審判者がいることに感謝します。6)全うされた義人たちの霊・・・旧約聖書の聖徒たちのことだと思います。私たちが今、新生して行なっていることを、信仰だけで歩んだ(旧約の)人たちのことです。私たちは、新生して達成したのではなく、それによって与えられたのです。7)新しい契約の仲介者イエス」・・・神だけが審判者だったら、私たちは天に近づくことができなかったでしょうが、イエスが新しい契約の仲介者になってくれたのです。そして最後に、「アベルの血よりも優れたことを語る、注ぎかけの血に近づいています。」
  イエスの血潮を注ぎかけると、天で私たちのために語ってくださり、アベルの血よりも優れたことを語るのです。 3つ比較する点がありますが、アベルの血は本人の同意無しに流されました。イエスは自ら進んで血を流された。 アベルの血は地に流されましたが、イエスの血は最も聖いものに振りかけられました。 アベルの血は復讐を叫びましたが、イエスの血は、あわれみを乞うのです。 これは美しい啓示なので、みんなに知ってほしい。 私たちが弱っているとき、プレッシャーを感じて祈れなくて、息もできないようなとき、イエスの血潮が神のもとに振りかけられて、私たちのためにいつも語ってくださっていることを思い出してください。あわれみを乞うているのです。 この事実を活用するために、口で告白しましょう。事前に考えたものではありませんが、 「私が祈れないときでも、イエスの血潮が私のために、天で懇願してくれていることを感謝します。」 「主よ。私が祈れないときでも、」私の後について言うのかと思ったら、一緒に言ったのですか。では初めから一緒に、「主よ。私が祈れないときでも、イエスの血潮が私のために、天で懇願してくれていることを感謝します。」 もう一度言いましょう。「主よ。私が祈れないときでも、イエスの血潮が私のために、天で懇願してくれていることを感謝します。アーメン。」

  そして最後に、イエスの血潮で、私たちにはアクセスが与えられるのです。 この血潮の働きは、時間の枠を超えて、私たちを天の永遠の領域に連れて行ってくれます。最初から行きたいと思っている場所です。 ヘブル10章19節です。この部分は今日の賛美でも使われていましたね。神がご用意されたことでしょう。 ヘブル10章19節。「こういうわけですから、兄弟たち。私たちはイエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。」 この「大胆」とは、ギリシャ語で、「発言の自由」という意味です。大胆さは宣言する自由から来るのです。 私たちのあかしを言うことを覚えておいてください。あかしをしなければ、受け取ることはできないのです。 「私たちはイエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また私たちには、神の家をつかさどるこの偉大な祭司があります。そのようなわけで私たちが、心に血の注ぎを受けて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか。約束された方は信頼すべき方ですから、私たちは動揺しないでしっかりと希望を告白しようではありませんか。」 ヘブル3:1には、イエスが、「告白する信仰の、大祭司だ」とあります。 ヘブル4:14には、「私たちの信仰の告白を堅く保つ」とあり、ヘブル10:23には、「動揺しないでしっかりと希望を告白しよう」とあります。 飛行機に乗るとき、座席ベルトを着けますね。なぜですか?揺れるからです。 みことばに、「告白」し、「堅く保ち」、「動揺しない」と書いてあるのは、「揺れるので座席ベルトを着けなさい」と神が言っているようなものです。揺れたからといって座席ベルトを外さないで、正しい告白をし続けるのです。 周りに起こっていることが正反対に見えても、神の言葉は確かなものです。私たちは大胆に聖所に入れることが分かりましたね。 レビ記16章では、聖所には、大祭司が年に一度だけ入りました。彼は皿に入れた香りの高い香を持って入り、香から出る雲が贖いの蓋を覆い(レビ16:13)、それは礼拝にあたります。いけにえの血を持って入り、幕とあかしの箱の間に、血を7回振りかけたのです。1、2、3、4、5、6、7回です。贖いの蓋の東側に血を振りかけ、贖いの蓋の前に7たび振りかけた(レビ16:14)のです。 ヘブル書の著者は、イエスの血潮で私たちは大胆に新しく生きることができると言いますが、彼はこの7回の血の振りかけと、契約の箱に血を振りかけることを考えていたのです。 神の御座という、全宇宙で最も聖なる場所に、イエスの血潮のおかげで、大胆に近づくことができるのです。 アクセスが与えられたからです。
  こう言いましょう。何を言うか分からないので、私の後について言ってください。 「主よ。感謝します。イエスの血潮を振りかけることによって、全能の神のみもとである、宇宙の至聖所に入ることができることに感謝します。」 もう一度言いましょう。 「主よ。感謝します。イエスの血潮を振りかけることによって、全能の神のみもとである、宇宙の至聖所に入ることができることに感謝します。」


  7つの効果をおさらいして、終わりにしましょう。 この順番でなくても良いのですが、最も論理的な順番だと思います。 贖い、きよめ、義とする、聖とする、いのち、とりなし、アクセスです。血潮を7回振りかけると、7つの方法で、私たちに働きかけるのです。 そして、小羊の血と、自分たちのあかしの言葉のゆえに、サタンに打ち勝ったことを覚えておいてください。(黙示録12:11)
  最後に一緒に言いましょう。「彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」も忘れずに言ってください。 「私たちは、小羊の血と自分たちのあかしの言葉のゆえに、サタンに打ち勝った。私たちは死に至るまでも、いのちを惜しまなかった。」 これらを知った後、当然すべきことは、神を賛美することですね。賛美しないのなら、神を信じないことですから。






        § デリック・プリンス師(Derek Prince) (1915年〜2003年、英国人、「教師」、見分け○固定) http://www.derekprince.org/



  (告白・宣言文)
        私たちはサタンに打ち勝ちます。私たちが個人的にあかしをするときに。 みことばが言うように、イエスの血潮が成し遂げた。私たちのために

     1. 「イエスの血潮によって、悪魔の手中(しゅちゅう)から私は贖われました。」
     2. 「私が光の中を歩むとき、イエスの血潮が、今私をきよめ、すべての罪から私をきよめ続けます。」
     3. 「イエスの血潮によって、まるで自分はこれまでに、罪を犯したことがないかのように、義と認められ、放免され、無罪となり、義とみなされ、義とされたのです。」
     4. 「イエスの血潮によって自分は聖とされ、罪から離され、神のために聖別され、神の聖さによって聖となったのです。」
     5. 「主イエスよ。あなたの血潮を受け取るとき、あなたのいのちも受け取ります。神聖なる、永遠で終わることのない、神のいのちを、受け取ります。」
     6. 「主よ。私が祈れないときでも、イエスの血潮が私のために、天で懇願してくれていることを感謝します。」
     7. 「主よ。感謝します。イエスの血潮を振りかけることによって、全能の神のみもとである、宇宙の至聖所に入ることができることに感謝します。」

  まとめの宣言. 「私たちは、小羊の血と自分たちのあかしの言葉のゆえに、サタンに打ち勝った。私たちは死に至るまでも、いのちを惜しまなかった。」




   (デリック師の他のメッセージ・リンク)
     Derek Prince 師 ミニストリー  ・・・・・・  罪悪感・恥・拒絶感を克服する (17 2月10日)
     デレク・プリンス師 家系の呪いを壊す part1 ・・・ 祝福と呪い、呪いの原因、呪いからの解放(16 9月15日)




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